1.スペイン検定問題集で歴史や料理・フラメンコなど知識を深めよう

歴史
Q、旧石器時代末期の洞窟画のなかで、アルタミーラのものは、とくに見事である。おそらく呪術的な目的で描かれたものであろうが、今描いたようなみずみずしい迫力がある。アルタミーラをふくめ、洞窟画をもつ洞窟が多くみられるのは、スペインのどの地方か。

①カンタブリア海沿岸地方
②アンダルシア地方
③中央メセタ地方
④ムルシア地方

正解①
カンタブリア海に沿ってスペイン北部には紀元前1万5000年、旧石器時代末期の洞窟がたくさん発見されている。アルタミーラ洞窟がもっとも有名だが、中に入ることはできないので、マドリードの考古学博物館の地下に実物を復元したものがつくられている。

アルタミーラはカンタブリア県だが、ビスカヤ県のゲルニカ近くにあるサンティマミーニェ洞窟には以前、入って見たことがある。今にいたる人間の歴史の筋道をつきつけられた思いがした。

Q、ローマ帝国の時代、アウグストゥス帝により建設され、のちにルシタニア州の首都となり、現在もローマ橋、円形劇場、トラヤヌス帝の凱旋門の-部、水道橋の一部などが残るイベリア半島の都市はどこか。
①コルドバ
②タラゴナ
③セゴビア
④メリダ

正解③
ローマの届州であったイベリア半島は、アウグストゥス帝(在位紀元前27-14)の時代には、「パックス・ロマーナ」の一環としてタラコネンシス(北東部)、バエテイカ(南部)、ルシタニア(南西部)の3つの属州に分割されて統治されていた。ルシタニア州はイベリア半島の西部で、現在のポルトガルとエストゥレマドゥーラ地方を合わせた地域に相当する。

メリダはアウグストゥスの名を冠した「エメリタ・アウグスタ」と呼ばれ、退役兵士のための植民として前25年に建設された。サラマンカとイタリカ(現在のセビリャ近郊)を結ぶ銀の道の中継地として、アウグストゥスとその継子アグリッパの時代に大きくなり、3世紀末には古代ローマ世界の11都市の1つで、その第9番目に位置し、「スペインのローマ」と呼ばれるほど繁栄した。ローマ時代の遺跡は、現在世界遺産として保護されている。


Q、西ローマ帝国の衰退に伴い、5世紀の初頭及び同世紀の前半期には、スエヴィ族、ヴァンダル族、アラン族、西ゴート族といった民族集団がイベリア半島に到来する。これらの民族集団の中で、出自において、ゲルマン種族とは-線を画すイラン系の騎馬部族はどれか。
①スエヴィ族
②ヴァンダル族
③アラン族
④西ゴート族


正解③
西暦409年、ゲルマン種族の一派である①スエヴィ族がイベリア半島に到来し、ガリシアとその南方のルシタニア地方に定住を果たす。また同年には、②ヴァンダル族とアラン族からなる混成集団がピレネー越えを敢行してイベリア半島に到達する。

この混成集団のうち、前者のヴァンダル族はゲルマン種族に、後者のアラン族は元来コーカサス平原を出自としたイラン系種族に属する。因みに両者はローマ帝国に臣従することなく民族移動を展開し、最後には北アフリカに移動して歴史の表舞台から姿を消す。これら3種族に遅れてイベリア半島に到達するのが、ゲルマン種族の④西ゴート族である。

彼らはしんがりの集団であったにもかかわらず、イベリア半島史上初の統一王朝を彼の地に樹立して、後世のスペイン史にその名を残す。よって正解は、③のアラン族である。今日、ピレネー山中のアラン谷周辺の住民は、つとに尚武の民として西方世界に雄飛したアラン族を祖先にもつ人々であるといわれている。


Q、世界で初めて地球を一周し、地球がほんとうに球形であることを実証した人は次のうちだれか。
①マゼラン
②コロンブス
③エルカノ
④キャプテン・クック
正解③
マゼランが正解だと確信している人が多いにちがいない。しかし、1519年、スペイン王カルロス1世(神聖ロ-マ帝国皇帝カール5世)の援助のもと、五艘の船と、275人の乗組員を率いて新航路を発見すべく出航したのはたしかにマゼランであるが、彼はフィリッピンで島民のいざこざに巻き込まれて死んでしまった。残った船員をまとめ、船長として1艘だけ残った「ビクトリア号」で1521年に帰国したのは、バスク人のファン・セバスティアン・エルカノである。世界一周を果たし、帰国したのはエルカノを含めて18人だった。

どんなに過酷な航海だったかがわかる。18人の名前も全部わかっている。世界一周を果たして帰国した時、力ルロス1世は地球儀をエルカノに贈った。それには「あなたははじめて私の周りを回った」とラテン語で書かれていた


Q、アンダルシア地方の県都で、かつて大航海時代にエル・ドラドは「黄金郷」への登竜門といわれ、段賑を極めたセビリャ。このセビリャから、市内の中心部を流れるグァダルキビル河をわずか15キロ下ったところに、コリア・デル・リオという何の変哲も無い、農業中心の町がある。このコリア町役場に、「日本」を現すような姓をもつ人が600人余りも住民登録している。果たして、コリア町にいる600人余りの姓はなんと言うか。
①ハセクラ
②ダテ
③センダイ
④ハポン
正解④
ハボン(Jap6n)は「日本」のこと。
1613年9月、仙台藩伊達政宗の命で支倉常長(1571-1622)を正使とする26名の遣欧使節団が派遣された。メキシコからマドリードへ向う途中1614年10月、グァダルキビル河を遡行し、セビリヤで大歓迎された。

ここからマドリードでフェリペ3世に、さらにローマで教皇に拝謁を許されるが、当初の目的である仙台藩とスペインの国交樹立は実らず、同じ行程で帰国の途につくことになる。このころになると、使節団の中から脱落者が出てくる。使節団の船出の町コリアに、何名かが残った。現地の歴史家や郷土史家は「8名説」を採っている。

スペインに残ったサムライたちは、「ハポン」を自分の姓として名乗ったのだろう。しかも、スペインでは、「エル・グレコ(ギリシア人)」のように、人の特徴をそのまま姓にする場合もある。

また、戸籍上、父方と母方の両方の姓がつくことになっている。こうして、二重三重の偶然が重なり「ハポン」という姓が現在まで続いてきたのだった。ちなみに、彼らの中に、赤子の時、いわゆる「モンゴリアン・スポット(蒙古斑)」がお尻についているのもいた。



Q、日本文化の普及を目的に渡欧する夫に同行してヨーロッパを訪れ、内戦直後のスペインを自らの筆で活写した女流作家は次のうちだれか。

①林芙美子
②野上弥生子
③与謝野晶子
④岡本かの子

正解②
99歳まで現役で活躍され「迷路」「秀吉と利休」などの名作を残された作家野上弥生子(1885-1985)は、大分県臼杵市の出身。夏目漱石門下の野上一郎と結婚する。英文学者で能の権威でも知られた夫、豊一郎が能の芸術理論を中心に日本文化の特質についてイギリスの諸大学で講演するため渡英するのを契機に夫婦で欧米旅行を企て、1938年10月から翌年11月までの1年1ケ月、イギリスを中心に欧米諸国を旅した。

スペインを訪れたのは1939年8月のこと、内戦が終結してからわずか4ヶ月後のことであり、内戦の傷跡が各地にまだ生々しく残っていた。野上は夫とともにスペインの北部と中央部を旅して、当時のスペインを自らの筆で活写した。

野上の欧州旅行の紀行文は2001年に「欧米の旅」(上・中・下)として岩波書店から刊行されたが、当時スペインを訪れて紀行文を残している日本人は皆無に等しく、「欧米の旅」(下)に収められた「スペイン」は当時のスペインとくに内戦直後のスペインを今に伝える貴重な記録となっている。


料理・ワイン
Q、スペインの各地に見られる、老若男女、子供から大人まで誰にでも開かれた、甘党にも辛党にも対応した飲食店のことをなんというか。

①カフェテラ
②オスタル
③パルケ
④バル

正解④
バル(bar)とはソフトドリンクからアルコール飲料まで、つまり、甘(ドーナツ、ケーキ、チュロスなど)から辛(酒の肴)や軽食類(ボカディジョなど)を取りそろえた、スペインの至る所に見受けられる喫茶飲食の場である。カウンター席主流の、アルコール飲料を置く明るく開かれた喫茶店を想像するとよい。飲食物が威勢よく給仕され、お酒落にそれを食す客たちが集う場所である。

バルではサービスされるセクションにより同じオーダーでも料金が違ってくる。カウンター席(barra)、テーブル席(mesa)そしてテラス席(terraza)の順に付加価値がつき高級になる。ある店のカウンター(席)から別の店のカウンター(席)へと次々とはしごを重ねるのがスペイン的な楽しみ方と言える。

とりわけ旅行者には、トイレ休憩の場所としても利用される。ちなみに①は簡易コーヒーメーカー器、②はホテルよりも下のカテゴリーの宿泊施設、③は公園(park)を、それぞれ意味する言葉である。


Q、パエーリャといえば、日本でも1番知名度の高いスペイン料理。この料理のルーツはどの地方?

①アンダルシア
②マドリード
③バレンシア
④カタルーニャ

正解③
バレンシアは古くからスペインの米生産の中心地で、さまざまな米料理が楽しめる。パエーリャという名は、この料理專用の浅い鉄鍋の名前に由来している。観光客のあいだでは魚介類のパエーリャが人気だが、もともとは畑の料理で、うさぎの肉、かたつむり、インゲンマメなどを入れて作るのがオリジナル。

薪の火にかけて煮込む生粋のアウトドア料理だ。①アフリカに近くて灼熱の豆が長いアンダルシアの名物料理なら、ガスパッチョ(冷たいスープ)やペスカード・フリート(魚のフライ)。米料理は種類が少ない。

②首都マドリードの名物料理はコシード・マドリレーニョ。肉類、野菜類、豆をじっくり煮込んだ内陸部ならではのシチューで、これだけでフルコースの食聿になる。
③カタルーニャ版パエーリャといえばフィデウア・ネグラ(黒いパスタ)。イカ墨を使ったパスタ料理で、バルセロナの食堂レストランでは人気メニューのひとつだ。

Q、スペインの暑い夏に好まれる、冷たいスープはどれ?
①ガスパチュエロス
②ソパ・デ・アホ
③ガスパッチョ・アンダルス
④カルド・ガジエーゴ

正解③
ニンニク、パン、オリーブ油をベースとして野菜を加えた、アンダルシアの冷たいスープ。現在ではトマトをたっぷり使ったものが定番だが、トマトがアメリカから到着する前は白いスープだった。

今でもマラガやグラナダではアホ・ブランコという白いガスパッチョのバージョンがある。いずれも、暑い夏には絶好の栄養源。①は魚介類を使った温かいスープ。②はニンニク、パン、オリーブ油というガスパッチョと同じ材料をベースとする中央部の温かいスープ。④は夏も暑くないガリシア地方の、蕪の葉や豚肉を入れたスープ。


Q、スペイン風オムレツ、「トルティーリャ」に欠かせない野菜は何?

①ナス
②ジャガイモ
③トマト
④ホウレンソウ

正解②
19世紀に北部ナバラ地方で、カルリスタ戦争という内戦のときに生まれたというトルティーリャは、スペインのどこの地方でも好まれる「おふくろの味」。温かくても冷めてもおいしいので、バルのつまみとして、またボカディーリョと呼ばれるサンドウィッチとしても活躍する。①カタルーニャはナス料理が好きで、トルティーリャにもナス入りがある。
③内陸部では「トルティーリャ・パイサーナ(田舎風オムレツ)」という、トマトなど野菜各種を入れたものがある。③北部には、ホウレンソウとタラといった組み合わせも。


Q、複雑な歴史と変化に富んだ気候風土をもつスペインは、地方によって料理や食習慣もさまざまに異なっている。そんなスペイン料理の共通項ともいえる特徴はどれか。
①魚介類が中心で、肉料理はそれほど食べない。
②オリーブ油を常にたっぷり使う。
③ぴりっと辛い味の料理が多い。
④米は重要な産物で、主食として欠かせない。

正解②
スペイン料理には必ずといっていいほどオリーブ油が使用され、料理の味つけの大切なポイントとなっている。スペイン料理を作るために欠かせない第一の素材はオリーブ油と言い換えてもいいだろう。

①ヨーロッパの国々のなかでは魚介類の消費がずば抜けて多いのが事実だが、食生活の土台はあくまで肉食。仔羊の肉や豚肉とその加工食品などは、どの地方でも欠かせない食の基本となっている。

③スペインの植民地だった中南米の嗜好には辛いものが多いために混同されることが多いが、スペイン人の味覚では辛いものは一般的に余り好まれず、伝統的な料理に辛いものはごく少ない。

④バレンシア地方など地中海沿岸部には米の産地もあり米料理も好まれるが、米はあくまで野菜の一種として扱われ、ほとんど食べない地方もある。主食という言い方をするならパンである。



Q、最近日本でも、「イベリコ豚」という名前を耳にするようになってきた。とはいえ、漠然とおいしい豚肉、特別高価な豚肉の代名詞のように思っている人も多いようだ。イベリコ豚について、正しい情報はどれか
①ウエルバ地方で育てられる黒豚の名前で、正しくは「パタ・ネグラ」という。
②スペインの高級レストランでは、イベリコ豚のステーキがもっとも好まれる。
③蹄が黒いのが特徴で、ヨーロッパでもっとも原生種に近い豚の名前。
④どんぐりを食べて育った豚の生ハムの名前がイベリコという。

正解③
イベリコとは豚の品種名で、もともと豚の祖先であるイノシシがアジア系、地中海系、ケルト系の3種に分かれたうちの1種がイベリア半島に住み着いたところから名前がついた。足が長く野生に近い体つきを保ち、蹄が黒いことが特徴で、スペインの豚の総数の約6パーセントにしか満たない。この豚の足で作るハモン(生ハム)は最高品質のハモンとして珍重される。

①ウエルバ地方のハブーゴ村は、古くからイベリコ種の豚でハモンを作ることで知られてきた。そのため、ハブーゴはイベリコという言葉の別称のように間違って理解されてきたが、実際にイベリコ種の豚をもっとも多く飼育しているのはエストゥレマドゥーラ地方である。またイベリコの蹄が黒いところから、ハブーゴのハモンは「パタ・ネグラ(黒い足)」の愛称で親しまれてきたが、正式名称は「ハモン・イベリコ」となる。

②イベリコ豚のもっともおいしい食べ方は、長期熟成してハモンに、あるいはチョリソにすること。スペインではもともと、豚肉は加工食品として活躍するが、なかでもイベリコ豚の肉質はハモンに適している。ステーキなど料理のためにイベリコ豚を使うのは、スペインでは邪道と言っていい。

④イベリコ豚のなかでも、山を歩きドングリを食べて成長した豚のハモンがとりわけ珍重される。ドングリの風味がイベリコ豚の肉に独特の脂肪分を与えるからで、こうして出来たハモンの正式名称は「ハモン・イベリコ・デ・ベジョータ(どんぐりを食べたイベリコ豚のハモン)」となる

Q、いまや世界のトップクラスに躍り出たスペインのワイン。スーパー・スパニッシュと呼ばれる高価なワインを筆頭に、エレガントで完成度の高いワインが次々に登場している。高級ワインの熟成の大切な段階が木の樽での熟成だが、樽の素材としては最高品質とされて高価なのは次のどの木材か。

①オリーブの古木
②フランスの樫
③コルク樫
④アメリカの樫
正解②
ワインの樽に使われるのは通常、フレンチオークとアメリカンオーク。そのなかでもフランスのものは、ワインのもつタンニンと呼応してまろやかで香り高い熟成を助ける。ワインのコルク栓の原料となるコルク樫はスペインの名産だが最近では不足がちで、テーブルワインなどではプラスチック製やスクリューキャップで代用されることも多くなってきた



文化・思想
Q、ジョアノット・マルトウレイ作のカタルーニャ語の騎士物語、およびその主人公の名。名著『ドン・キホーテ』の作者ミゲル・デ・セルバンテスが「世界で最良の書」と称えた傑作で、1490年にバレンシアで出版され、1511年には最初のスペイン語(カスティーリャ語)訳が出ている。日本でもようやく2007年に邦訳が出た。その作品名は次のどれか。

①『ラ・ガラテア』
②『人生は夢』
③『ラ・セレスティーナ』
④『ティラン・ロ・プラン』
正解④
力タルーニャ語はロマンス語の1つ。スペインのカタルーニャ地方、バレンシア地方、バレアレス諸島アンドラ、フランスのルション、サルデーニャ島北西部の街アルゲロで使用されており、全言語人口800万人を数える。

その歴史は古く、現存する最古の文書は11世紀の「ウルガニャー説教集」にさかのぼる。マリョルカ島出身のラモン・リュイは13世紀にすでにカタルーニャ語を文章語に使用しており、15世紀にはカタルーニャ語文学が黄金時代を迎えている。詩を代表したのがアウシアス・マルクの詩なら、散文を代表したのが「ティラン・ロ・プラン」であった。

「ティラン・ロ・プラン」は1460年頃にバレンシア出身の騎士ジュアノット・マルトゥレイによって=き始められ、彼の死後はマルティ・ジュアン・ダ・ガルバによって書き継がれた。1490年にバレンシアでドイツ人の印刷業者ニコラウ・シュピンドラーによって印刷、出版され、「ドン・キホーテ」の作者ミゲル・デセルバンテスから「世界で最良の言」と称えられたが、その後本吉に注目する者はほとんどなく忘れられてしまっていた。

19世紀末になって再び注目されるようになり、とくに近年ではペルーの作家バルガス・リョサの「発見」と「紹介」に広く知られるようになった。①の『ラ・ガラテア』はセルバンテスが1585年に出版した牧人小説、②の「人生は夢」は力ルデロンデラ・バルカが1635年に出版した哲学的戯曲、③の「ラ・セレスティーナ」はフェルナンドロハスが1499年に出版した戯曲形式の小説である。

Q、スペイン文学史上「黄金世紀(Siglosdeoro)」と呼ばれるのは次のうちどれか。
①16・17世紀
②17・18世紀
③18・19世紀
④19・20世紀
正解①
黄金世紀とは文学上は16世紀のルネサンス時代と17世紀のバロック時代を指す。具体的には、アントニオ・デ・ネブリハが「力ステイーリヤ語文法」を上梓した1492年から劇作家カルデロンが没する1681年の約200年間をいう。

ルネサンス時代は、力ルロス1世の治世(1517-1556)の前期ルネサンスとフェリペ2世の治世(1556-1598)の後期ルネサンスに下位区分できる。前者はヨーロッパ指向で、世界に向けてスペインが開かれていた時代である。

後期ルネサンスは、外部、特にイタリアからの影響をスペイン化する時代で、そこから神秘主義文学、ピカレスク小説といった新しいジャンルが登場している。黄金世紀の絶頂期は何といっても17世紀のバロック時代で、この時期スペイン文学はヨーロッパの文学に多大な影響を与えた。その影響力は19世紀のドイツロマン主義にも及んでいる。

黄金世紀に活躍した鐸々たる顔ぶれを挙げると、ガルシラソ・デ・ラ・ベガに始まり、ルイス・デ・レオン、サンタ・テレサ、セルバンテス、ゴンゴラ、ロぺ・デ・ベガ、ティルソ、ケベド、グラシアン、力ルデロン……まだまだこれに長い、長いエトセトラが続く。スペイン文学が生み出した三大人物、セレスティナ、ドン・キホーテ、ドン・ファン、はいずれもこの時代の作品中の人物である。


Q、スペイン語圏の子供たちにもっとも親しまれ、愛された心温まる散文詩『プラテーロとわたし』を書いた作者はだれか。この詩はアンダルシア地方の美しい風景を背景に、作者自身がロバを相手に語りかけるというもので、各章のエピソードが独立しており、それぞれがとても短くまとめられている。
①ルベン・ダリーオ
②アントニオ・マチャード
③オクタビオ・パス
④フアン・ラモン・ヒメネス
正解④
J ・R・ヒメネス(1881-1958)はルベン・ダリーオや、アントニオ・マチャードなどから多大な影響を受けたせいか、前半の詩には音楽的要素や色彩感覚が見事に表現されているが、後半の詩にはそうした華麗な装飾的要素を一切排除した純粋詩が姿をあらわすようになる。また動物や自然に対する作者の愛情とやさしさがいたるところに感じられる散文詩『プラテーロとわたし」(1914)は傑作である。



社会・生活
Q、スペインといえば闘牛、フラメンコ、情熱、シエスタなどわれわれはさまざまなステレオタイプを抱えこんでいる。スペイン人はまた、大の( )好きでもある。遅い昼食をとった後はシエスタ(昼寝)か、さもなくばしばしの休憩をとる。そして夕方ともなると人々はこぞって街に繰り出して( )を楽しむ。スペイン人は夕暮れ文化をこよなく愛する民族でもある。では( )内に入るのは次のどれか。

①パッション
②パセオ
③パソ
④パティオ
正解②
スペイン人ほどパセオ(散歩)の好きな民族はいないのではないだろうか。スペインにいて彼らが散歩を楽しむ光景を見ているとそんな思いを強くする。散歩の習慣が一体いつから始まったのか定かではないが、そもそもの起源は夏の暑さにあるのではないだろうか。

スペインの夏はとにかく暑い。だから人々は昼間は暑さをさけて家のなかに閉じこもり、夕方になると涼気を求めてどっと街に繰り出して散歩を楽しむのである。国民的作家司馬遼太郎はかつてスペインを訪れた際、人々が夕暮れ時に散歩を楽しむ光景を見て、「夕暮れ文化」と呼んでいた、けだし至言であろう。

動詞pasear 「散歩する」を使ってpasearencoche「ドライブをする」という熟語ができている。19世紀あるいは20世紀前半、スペインでは若い男女が着飾って保護者とともに馬車や車に乗って街に繰り出し、一種のお見合いをしていた。

一方、パセオには暗い歴史もまた刻まれている。「スペイン語用法辞典」(1956)の著者で知られるマリア・モリネルは、スペイン内戦時代(1936-39)、夫とともに共和派のひとりとして生きたため、戦後はアカ呼ばわりされて大変過酷な日々を送った。

同辞典には内戦の証言であるかのように、darelpaseoという熟語を載せている。その意味は「スペイン内戦時に人を自宅あるいは刑務所からこっそり連れ出して空き地で射殺すること」であった。なお、①のパッションは「情熱」、③のパソは「横断」、④のパティオは「中庭」の意味である


Q、スペインの日常生活で、比較的長い昼休みの食後の睡眠・休憩時間のことをなんと言うか。
①フィエスタ
②シエスタ
③メセタ
④ペセタ
正解②

シエスタとは、ラテン語のhoramsextam(古代ローマの第6時限=PM・0:00~3:00)に由来するもので、太陽が最も高く暑さの厳しいこの時間帯に適応する、昼食後の仮眠・休憩の時間を意味する。スペイン(語圏)の昼休みは、一般に午後2:00~4:00頃までのゆったりしたものであり、1日のうち最もボリュームのある食事をする。

ビールやワインなどアルコール飲料を摂取することも多く、会話を楽しみながらの食事は、会食者にとって意義深いコミュニケーションの場でもある。そして食後は仮眠等で休息する。

夕方から夜分の課業は午後8:00頃まで続き、夕食(cena)は午後9:00以降となることが多い。気候風土に順じたこの制度は、人間の生理を尊重したスペイン社会独特の時間運用の産物であり、1日を2回生きるエネルギッシュなライフスタイルとも言えるだろう。

ちなみに、①はパーティや祝典・祭事のこと、③は標高500メートル前後の台地高原のこと、そして④はEUに統合される、1998年以前のスペインの通貨単位のことをそれぞれ意味する

Q、12月31日大晦日の夜12時にスペイン中で行なわれることは何か。
①スペインの国歌を歌う。
②ロスコン・デ・レイエス(Rosc6ndeReyes)を食べる。
③年越しの七面烏(pavotrufado)を食べる。
④12粒のブドウを食べる。

正解④

大晦日の夜12時少し前、人々は広場あるいは各家庭のテレビの前に集まる。手には12個のブドウを持っている。テレビの画面にはマドリードのプエルタ・デル・ソルの時計が大写しされる。12時、その時計の鐘の音にあわせて1粒ずつブドウを食べる。

12個ちゃんと食べることができれば、新たな年に幸運がもたらされるのだそうだ。いちいち皮を剥いて食べるので、これが結構大変。中には最初から皮を剥いている横着者もいる。干しブドウはもちろんレッドカード。

こうしてカウントダウンが終わると、周囲にいる人誰かれなく握手キッスをして新年を祝う。これがスペインの新年の迎え方である。この行事は古くからの伝統ではなく、ある年ブドウの豊作で大室に余ったブドウの処分に困った業者が考えついたといわれている。


Q、スペインは多言語国家である。国の公用語はスペイン(カスティーリャ)語であるが、地方では準公用語としてガリシア語、バスク語、カタルーニャ語、バレンシア語、アラン語が使われている。このうち系統の異なる言語が1つ…それは次のどれか

①カタルーニャ語
②バスク語
③アラン語
④ガリシア語

正解②
スペインは内戦後のブランコ独裁時代(1939-75)にはスペイン語だけを公用語とする単一言語国家であったが、1978年憲法によりガリシア語、バスク語、力タルーニャ語、バレンシア語、アラン語が準公用語として認められ、多言語国家になった。ガリシア、バスク、カタルーニャ、バレンシアは、スペイン語と地方語の二言語併用地域であり、アラン渓谷はスペイン語カタルーニャ語、アラン語の三言語併用地域である。

これらの言語を系統で考えると、スペイン(カスティーリャ)語、ガリシア語、カタルーニャ語、バレンシア語アラン語はいずれもラテン語を源として形成されたものであるが、バスク語だけは系統不明の言語である。バスク語の使用地域は主として南フランス3県と北スペイン4県の両国にまたがるバスク地方であり、言語人口は約60万人、人口比ではスペイン側が80%を占めている。


Q、ヨーロッパで盛んなスポーツはサッカー。イタリアの「セリエA」、イングランドの「プレミアリーグ」、そしてスペインの「リーガエスパニョーラ」が三大リーグといわれている。日本人も活躍しているが、どこのチームも外国人選手をスカウトして、強化をはかっている。そんな中で、選手はスペイン人、それも地元出身に限るという「純血主義」を1世紀近くも守り通しているチームかある。それでいてスペイン1部リーグのリーガエスパニョーラから一度も2部へ降格したことがない古豪。さて、そのチーム名は?

①アトレチコ・マドリード
②レアル・ソシエダ
③アスレティック・ビルバオ
④レアル・マドリード

正解③
アスレティック・ビルバオは、スペイン北部バスク地方の中心、ビルバオに本拠地を置く。サッカーの本場、イギリスから帰ってきた学生が中心になって1898年に創立。当初は外国人もいたが、1912年に外国人がチームを去って以来、選手をバスク人に限定している。

特にブランコ独裁時代に、バスク人は弾圧され、チーム名も「アトレチコビルバオ」に改称させられたが、それでもバスク人の誇りを保ち続け、外国人に依存しない戦力づくりを続けた。古豪中の古豪で、これまでに-度も2部リーグに降格したことがないのは、スペインリーグでも、世界チャンピオンシップを争うFCバルセロナ、レアル・マドリードと並んで3チームだけ。ビルバオは、これまでにリーグ優勝8度、スペイン国王杯優勝23回を数える。

ただし、ここ数年は度々降格のピンチに立たされながら、土壇場で底力を発揮して踏みとどまっている。なお、監督はイングランド、スロバキアなどから外国人を招いている。また、同じバスク地方を本拠地とするレアル・ソシエダも「純血主義」を貫いていたが、1989年から外国人とも契約するようになった。ちなみに、ビルバオとソシエダの試合は「バスクダービー」と呼ばれ、地元を熱狂させている



祭り・観光・世界遺産
Q、お祭り好きなスペインでは、毎日どこかでお祭りがあるといわれる。とりわけ盛大なのがスペイン三大祭りとされるバレンシアの火まつり、セビリャの春祭り、そして北部パンプローナのサン・フェルミン祭り。それぞれ多彩なイベントを用意しているが、それらのうち、サン・フェルミン祭りのメーンイベントといえば

①裸馬レース
②牛追い
③トマト投げ
④人間ピラミッド

正解②
毎年7月6日正午、ナバラ県都パンプローナの市庁舎前広場で市長が祭りの開会を宣言、ロケット花火があがり、広場を埋め尽くした数千の市民らが、一斉に赤いハンカチをふりかざし、守護聖人サン・フェルミンの名を連呼する。シャンパンやワインが箱で持ち込まれ、老いも若きもラッパ飲み。これから14日夜中12時の閉会式まで、旧市街では24時間エンドレスのドンチャン騒ぎが続く。

そして、7日から14日までの毎朝8時エンシエロ(牛追い)がスタートする。400年続く伝統行事。もともとは闘牛場へ牛を追い込む行事だったが、いつのまにか牛と併走したり、牛の前を走って勇気のあるところをみせるスタイルになった。

それだけ危険を伴い、毎年多くの負傷者、時には死者を出している。現実には負傷者の大半は外国人、オーストラリア人やドイツ人観光客が多い。レースの模様は毎日、国営テレビでナマ中継される。祭りの模様は文豪ヘミングウェイの小説「陽はまた昇る」に紹介されて世界的に有名になった。他にも闘牛、民族舞踊、コンサート、石のリフティング、丸太切り、綱引きといった素朴なスポーツ大会、パレードなど盛りだくさん。

三大祭りのバレンシアの火まつりは、3月12日から19日まで行われる。紙と粘土で作り上げた200から300体もの人形を街の角々に飾り、コンクールになっている。大きなものは高さ30メートルにも及ぶ。最終日の19日深夜12時、人形に一斉に火が放たれ、焼き尽くす。ただし、コンクールで優勝した1体だけは燃やさないで、バレンシア郊外の火まつり博物館に展示される。

またセビリャの春祭りは、厳粛なキリスト教の聖週間の後に行われる華やかな祭り。大通りに面して色とりどりの大型のテント小屋(カセータ)が並び、中では食べたり、踊ったり、ゲームを楽しんだりする。馬上姿もりりしい男性が、民族衣装も鮮やかな女性を後ろに乗せてパレードするなど明るく陽気なスペインらしい祭りである。


Q、スペインの国技である闘牛は、通常は1試合で何人の闘牛士が何頭の牛と闘うか。

① 2人で4頭
② 2人で6頭
③ 3人で6頭
④ 4人で8頭

正解③
ふつう闘牛は6頭の牛を3人の闘牛士が殺す。経歴の古い順に闘い、それが二巡するわけである。

2人の闘牛士が交互に6頭と闘う場合も稀にあり、これは「マノ・ア・マノ」という。また、特別に1人の闘牛士を顕彰するために、1人で6頭と闘う場合もごく稀にある。これで好成績をあげるとマドリードのベンタス闘牛場のブロンズ板にその名を刻まれる。

名闘牛士パキーリはかつてそのチャンスに恵まれ、私もベンタスヘ見に行ったが、その日彼はついに常の力量を出せず、まったくの不発に終わった。ゆえにブロンズ板にその名はない。パキーリはのちに、コルドバ県の寒村ポソブランコでの闘牛で牛に刺され、落命した


Q、スペインで最古の都市は、次のうちどれか。

①マドリード
②バルセロナ
③セビリャ
④カディス

正解④
カディスは紀元前1l00年ころ、「地中海の女王」と呼ばれたフェニキア人によって、建設されたといわれる。当時のギリシア人にとって、ジブラルタル海峡の先は暗黒の海であり、彼らはそれを「アトランティスの海」と呼んで恐れた。

伝説によれば、英雄ヘラクレスもジブラルタル海峡を越えることができず、「これ以上、駄目」と刻んだ「ヘラクレスの柱」を建てた、という。カディスは、まさに命がけの航海の果てに建設された、古代都市のひとつなのである。今は漁港、軍港として使われる地味な港だが、歴史上一度だけこのカディスの名が、スペイン中に鳴り響いたことがある。

1805年、ナポレオン軍がスペインに侵攻し、スペイン独立戦争が勃発した。多勢に無勢、苦戦を強いられたスペイン陣営は、しだいに南へ追いやられる。しかし、かろうじてカディスに踏みとどまり、1810年にカディスで議会を開いた。

スペインではじめての近代議会であり、ここで「国民主権は議会に存する」との宣言が行なわれた。その2年後に、スペインは「カディス憲法(1812年憲法)」を、制定する。これが契機となり、翌年スペインは北部のビトリアの戦いで大勝し、ナポレオン軍をイベリア半島から撃退した。



Q、ルーゴはガリシア内陸部の都市、この町を巡る城壁が世界遺産に登録されている。ここの大聖堂に祀られ、町の守護聖人ともなっているマリア様はなんと呼ばれているか。
①大きな目のマリア
②グアダルーペの~マリア
③モンセラートのマリア
④柱の聖母

正解①
その名の通り、ぱっちりとした目の聖母マリアは、ガリシアのたくましい農婦にも似て、その愛信ある姿は人々に大人気である。もともとはイタリアで信奉されていたものが近世以降スペインに伝わった。②はメキシコを代表する聖母、③はカタルーニャのシンボルとも言える黒いマリア様、④はサラゴーサの柱の上に現れたという聖母。それぞれのマリアの副名は女性の名前によく使われており、人気のほどが伺われる。ちなみに、ガリシアの男性の名前は圧倒的にサンティアゴ(聖ヤコブ)が多い




芸術
Q、絵の値段はふつう画家の格と、絵の大きさによって決まる。ゴヤはそれ以外に支払額に応じて、体のある部分をいかに丁寧に描くかどうかという基準を持っていた。ではその体のある部分とはどこか。
①目
②耳
③手
④髪

正解③
ゴヤは支払額に応じて片手を体の後ろや、ひざ掛けなどに隠してしまった。両手を描くのは一番値段が高い。手は人間の心と感情を微妙に表すものと考えられていた。だから手を描くことは難しかったのだ。同じく手に言葉と表情を与えた画家にエル・グレコがいる。

人は犯した罪や過ちを悔いるために、中指と薬指とを合わせそっと痛み続ける胸に置く。愛読害イグナチオ・デ・ロヨラ『霊操』から得た知識である。手は口ほどに物を言うのだ。これからはゴヤやグレコの絵を見るときには手も注意して見よう


Q、l9世紀末から20世紀にかけて、力タルーニャ地方、とりわけバルセロナで開花した建築を中心とする芸術様式。この中心的な建築家として、ドメネク・イ・モンタネール、アントニオ・ガウディの名を挙げておこう。この芸術様式はなんと呼ばれているか

①モデルニスモ
②アール・ヌーヴォー
③ユーゲントシュティール
④カシキスモ

正解①
モデルニスモは、物質主義に反対し、「自然の力」を人間の創造に取り入れようとした前衛的な芸術が風摩した産業都市バルセロナでピカソ、ミロ、ダリなども多感な青春時代を過ごした。この3人は、やがて芸術の都パリに出て、より前衛的なフォービズム(野性派)やシュールレアリスム(超現実主義)の旗手に成長していった。

②のアール・ヌーヴォーは、フランスのモデルニスモであり、③のユーゲントシュティールは、ドイツのモデルニスモのことである。④のカシキスモは、1890年の普通選挙の実施に際して、2大政党が崩壊するのを危惧して悪名高い「カシケ(地方ボス)」を使って選挙操作が行われたが、このような選挙システムをカシキスモと呼んだ。

Q、スペイン、カタルーニャ地方の異色の天才建築家アントニ・ガウディ(1852-1926)。次のうち、ガウディの建造物でないものが1つだけある。それはどれか。

①サグラダファミリア教会
②グエル公園
③カサ・ミラ
④バルセロナ大聖堂

正解④
①~③はすべてガウディが手がけた建造物で、サグラダファミリア教会は1882年に建造が開始され、現在も進行中だ。またグエル公園は1900年に始まり1914年に完成、カサ・ミラは1906年に開始され1910年に完成している。③のバルセロナ大聖堂は13世紀から15世紀にかけて作られたゴシック様式の大聖堂。

ところで、ガウディがどのような意図でサグラダファミリア教会を設計したか、おそらく、バルセロナを中心とするいわゆる「カタルーニャ民族主義」と、彼流の教条主義的ともいえる「カトリシズム」の二つへの傾注が、建築家ガウディの天才に拍車をかけた、といえるであろう。それにしても、この奇想天外な教会の建設は並大抵ではなかった。

バルセロナの19世紀の経済と文化の燗熟も、20世紀に至ってことに経済に破綻が生じ、この聖家族教会の建設が中断の憂き目に合うようなことも、一度ならずあったからだ。そのたびに、ガウディは自分の全財産を売却したりして、何とか急場をしのいできたが、遂に聖家族教会の地下の事務所の片隅で寝起きし、質素な、というよりは窮迫した生活を送らねばならなかった。そして1926年6月7日午後、ガウディが夕ミサに与かろうと聖家族教会を出て通りを横切ろうとした時市電に礫かれてしまった。

彼は貧しい身なりだったために、事故の周りに集まった人は誰一人としてガウディとは気づかず、居合わせたタクシーの運転手すら乗車拒否する始末だった。身元不明の行き倒れの老人として、慈善病院へ運ばれ、そこで意識を回復しないまま、3日後、「建築美の求道者」たるガウディは不帰の客となった。ガウディが聖家族教会の尖塔に刻んだ聖家族の聖像は、すべてバルセロナ市民をモデルにしていたといわれているのに。

Q、次のオペラのうちスペイン人作家の作品が原作であるものはどれか。

①セビリアの理髪師(ロッシーニ作曲)
②シモン・ボッカネグラ(ヴェルディ作曲)
③愛の妙薬(ドニゼッティ作曲)
③カルメン(ビゼー作曲)

正解②
ヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」 (1857年ヴエネツイア、フェニーチェ劇場初演)の原作はスペインの作家、アントニオ・ガルシア・グテイエレス(1813-1884)の同名の戯曲(1843年マドリード、クルス劇場初演)である。オペラ化にあたり4幕構成は3幕へと変更されたが、筋書き・登場人物は原作に忠実である。

14世紀ジェノヴァ共和国の初代大統領を主人公とするこの歌劇の評価は近年とくに高まっているが、発表後一世紀間は忘れられた存在だった。ヴェルディはこれに先立つ1853年、同じガルシア・グテイエレスの出世作『エル・トロバドール』(1836年マドリード、テアトロ・エスパニョール初演)をローマで初演し(オペラの題名は「イル・トロバトーレ」)大成功をおさめていた。

ヴェルディはスペイン語原作を読み深く感銘を受けていたと思われ、台本作家に対し、原作を少しでも損なうのであれば、むしろオペラ化を諦めるべきだとまで指示していた。サラゴサのアルハフェリア宮殿の場面から始まるこの作品は14世紀末のアラゴンの内戦を背景としている。貴族階級の横暴と因習を排し、自由と恋愛を賛美する姿勢は「シモン・ボッカネグラ」にも共通する。

イタリア統一運動に深くかかわっていたヴェルディが、生粋の自由羊義者として生涯政治とかかわり続けたガルシア・グティエレスに抱いた共感は不思議ではない。さらに1862年、リーバス公爵の「ドン・アルバロまたは運命の力」(1836年初演)を原作とするオペラ「運命の力」の製作についても、同様の思想的共鳴があったと考えられる。

Q、ショパンとジョルジュ・サンドの愛の逃避行の場所はどこか。
①バルセロナ
②グラン・カナリア島(カナリア諸島)
③マドリード
④マリョルカ島(バレアレス諸島)

正解③
マリョルカ島はバルセロナの南東沖にあり、地中海の楽園と呼ばれている。
ショパン(28歳)は1838年11月から翌年2月まで、6歳年上のサンドとその子供たちと一緒に転地療養をかねてひと冬を過ごすためにパリを後にし、マリョルカ島に渡った。2人の愛の逃避行の場所は島の西海岸にあるバルデモーサのカルトゥハ修道院。

ここにはショパンが使っていたピアノなど、ゆかりの品々が現在展示されている。また名曲「雨だれ」はこの地で作られた。ショパンの曲を聴くのなら、島の東側にある世界一の地底湖ドラック洞窟をお勧めする。

ここでは、コンサートが湖に浮かぶ船上で行われている。ライトアップされた洞窟はまるで夢幻の世界である。マヨネーズの語源に関してたくさんの説があり、地名説だけでもメノルカ島のマオン、バイヨンヌなど諸説あるが、マリョルカ島説もある。烏のカナリアの名前は、カナリア諸島の名に由来する。



フラメンコ
Q、グクラナダが生んだ世界的な詩人・劇作家のフェデリコ・ガルシア・ロルカ(1898-1936)が1933年に行なった「カンテ・ホンド(深い歌)」に関する講演で言及した、フラメンコのアーティストの「足の裏から這いのぼってくる」もので、そのアーティストの心身に取り付き、それを見ている聴衆をも陶酔に引き込む「妖怪」「妖魔」といわれている神秘的な伝達力は?

①ドゥエンデ
②アイレ
③コンパス
④アフィシオナード

正解①
ロルカは、この講演で、「カンテホンド(深い歌)」のコンクールに参加したジプシー歌手マヌエル・トーレが、ファリャの「スペインの庭の夜」に耳を傾けつつ「黒い音にはすべてドゥエンデがいる」と放った鋭い言葉を紹介し、ロルカにとって、ドゥエンデとはつねに苦悩・悲'参・死に関するディオニュソス的霊感の一様式を表象しており、詩人・音楽家・踊り手など、人前で演ずる芸術家を活気付けるものである。

従って、ドゥエンデの欠くフラメンコは、どれほど技巧が優れていようと激しさを欠き、観客の背筋をゾクゾクさせるような感動を伝えることが出来ない、と述べた。

Q、次のうち外国から入ってきて、今でも盛んに歌い踊られているフラメンコの曲種はどれか。

①ブレリアス
②シギリージャス
③カラコレス
④グアヒーラス

正解④
19世紀、貿易港であったカディスを窓口として中南米の民謡が取り入れられ、フラメンコ化してカンテ・デ・イダ・イ・ブエルタ(つまり、スペインから往って帰った歌)というジャンルが生まれ、フラメンコのレパートリーに加わった。その代表がグアヒーラス(キユーバ方言で晨婦を意味する)。

南国の明るい曲調を持ち、混合拍子で歌われるが、特筆すべきはこのリズムがキューバでは失われ、「帰った国」スペインで生き残ったことだ。1890年代以後、多くの著名なカンタオール(歌手)たちに取り上げられ、フラメンコ舞踊のレパートリーとしても重要な位置をしめるようになった。このジャンルの他の曲橦にはミロンガ、ルンバ、コンビアーナ、ビダリータ…などがある。

Q、フラメンコギターの弦の数は?
①3本
②4本
③5本
④6本

正解④
人の指は5本なのに、弦は6本ある。フラメンコのギタリストは、弾きたいという気持ちが強いために、指が1本動かなくなったり、事故などで1本を失ってもなお残った指で工夫をして、弾きこなすものだという話をあちこちで聞いた。同様に、耳の聞こえない踊り手、足の不自由な踊り手、声帯ポリープの手術で声を失った歌い手、などもフラメンコには実在する。
いずれも歴史的名手である。

フラメンコが単なる芸能や芸術を超えた、魂の領域での出来事であることを示している。


Q、マドリードやバルセロナ、セビリャにはフラメンコを専門に見せる「タブラオ」が数多く存在する。現在では午後9時頃に始まり12時頃に終わる(1980年代頃までは午後11時から午前3時というのが一般的であった)店が多く、毎夜多くの観光客で賑わう。
伝統的なスタイルであるクアドロ・フラメンコ(アーティストたち全員が一座となって座り、踊り手が1人ずつ前に出て踊る)に始まり、人気アーティストのアトラクションを見せる所もあれば、最初から踊り手が1人ずつ出て見せる所もあって内容はさまざまだ。客はおおいに楽しんで良いのだが、次の①~④の中にマナー違反がある。それはどれか

② オレー、ビエンなどと掛け声を掛ける。
②飲み物1杯で最後まで粘る。
③つまらなかったので終わっても拍手しない。
④いっしょに手拍子を叩いて盛り上げる。

正解④
①の掛け声(ハレオ)を掛けることは客とアーティストの心を結ぶ大切な習慣でハレオを掛けられることでアーティストも乗ってくる。ただし、あまりやみくもに掛けても迷惑なので、ひとつの目安として踊りやギターが止まった時に掛けるのが無難。

②店によって営業形態はさまざまだが、基本的には飲み物一杯でも大じょうぶ。ただし1部、2部と客を入れ替え制にしている所や、食事する客を優先していてダメと言われることもある。

③は客の権利であり、つまらないものに拍手をしないのはアーティストの為でもある。
③ はなぜマナー違反かと言うと、フラメンコのリズムが大変難しく微妙なものなので、プロと一緒に叩くことは不可能だからだ。客席から手拍子(パルマ)を叩かれるとリズムが狂ってしまうのでアーティストにとっては一番やりにくいことなのだ。終わってからの拍手はもちろんOK
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