1.世界遺産検定3級合格のための練習問題

3級
世界遣産の基礎知識

世界遺産条約に関する以下の問いに答えなさい。
1960年、エジプトのアスワン・ハイ・ダム建設で、水没する運命にあったある遺跡の移築計画をユネスコが世界各国に呼び掛けたことが、世界遺産誕生の契機となった。その遺跡は次のうちどれか。
①アブ・シンベル神殿
②ラメセウム
③聖カトリーナ修道院
④スフィンクス

正解:1[正解率:89%]
1960年、世界遺産誕能のきっかけとなる事件が起こりました。エジプト政府がナイル川上流においてアスワン・ハイ・ダムの建設に着手したのです。同ダムはエジプト人の生活にとって不可欠といえるものでしたが、この建設で、アブ・シンベル神殿に代表されるヌビア地方の貴菫な文化財が水没の危機に瀕することになりました。
事態を重く見たユネスコは、世界に向けヌビア遺跡救済を提言し、国際協力による救済キャンペーンが開始されます。アブ・シンベル神殿の石像をブロックに裁断し、ダム湖の水面より高い丘の上に移設するスウェーデン案を採用。計画に要する資金としては国際募金が呼びかけられ、工事はエジプト人労働者が中心となって実施されました。こうして成功を見た一連のプロジェクトを契機に、ヌビアの遺跡群はエジプト国家にとってのみならず「人類共通の遺産」(ourcommonheritage)であるという認識が生まれ、後に「世界遺産」という概念へと発展していくことになります。


「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(通称世界遺産条約)
がユネスコ総会で採択されたのはいつか。
①1952年
②1955年
③1972年
④1975年

正解:3[正解率:82%]
世界遺産条約は正式名称を「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」
(ConventionConcerningtheProtectionoftheWorldCulturalandNaturalHeritage)といいます。1972年11月、パリに本部を置くユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の、日本代表が議長を務めた第17回総会において満場一致面採択されました。20カ国が締結を済ませた1975年に正式発効しています。地球が作り出したかけがえのない自然や、人類が創造した貴重な文化財などを、共通の自然遺産文化遺産として登録・保護することを目的とした国際条約で、人類の英知を結集して「類まれな地球の遺産」を次世代へ継承していくための重要な試みです。


日本が世界遺産条約を締結した年は、()で国連初の「環境サミット」(地球サミット)が開催されたことにより、環境問題への関心が高まった年でもあった。
①ブエノスアイレス
②メキシコシティ
③サン・ホセ
④リオデジヤネイロ


正解:4[正解率:58%]
日本が世界遺産条約締約国の仲間入りを果たした1992年は、国連で初めて環境と開発をテーマとする首脳レベルの国際会議「環境サミット」が開かれた年でもあります。環境サミットは、正式には「環境と開発に関する国連会議」(略称、国連環境開発会議)といい、「地球サミット」と呼ばれることもあります。1992年は同会議が開催されたため、環境問題への関心が世界的に高まっていました。開催都市はブラジルのリオデジャネイロです。持続可能な開発を目指す地球規模でのパートナーシップ構築に向けた「リオ宣言」や、行動計画「アジェンダ21」が合意されました。
環境と開発をテーマとする国連主催の大規模な会議は、世界遺産条約がユネスコで採択された1972年にスウェーデンのストックホルムで開かれた「国連人間環境会議」(ストックホルム会議)を初とし、以降、約10年ごとに開催されてきました。1982年にはケニアのナイロビで国連環境計画(UNEP)管理理事会特別会合(ナイロビ会議)、1992年にはリオデジャネイロでの環境サミット、さらには2002年に南アフリカのヨハネスブルクで「持続可能な開発に関する世界首脳会議」(第2回地球サミット)も開かれています。



ユネスコの正式名称は何か。
①国際連合児菫基金
②国際連合安全保障理事会
③国際連合教育科学文化機関
④世界自然保諄墓令

正解:3[正解率:78%]
ユネスコの正式名称は「国際連合教育科学文化機関」です。英語での正式名称を「UnitedNationsEducational,ScientiicandCulturalOrganization」といい、その頭文字をとってUNESCO(ユネスコ)と呼ばれます。選択肢にある「国際連合児童基金」はユニセフの正式名称、「国際連合安全保障理事会」はいわゆる国連安保理、そして「世界自然保護基金」は世界の野生生物およびその生息域を守るための国際的基金である「WorldWideFundforNature」(略称、WWF)の日本語の名称です。ユネスコは1945年に採択された国連教育科学文化機関憲章(ユネスコ憲章)に基づいて1946年に設立されました。教育、科学および文化を通じて国際協力を促進し、世界平和と人類の福祉に貢献することを目的としています。日本は1951年に加盟しました。

日本の世界遺産
17世紀初頭の日本式城郭建築の建造物として、最も美しいもののひとつとされる「姫路城」は、()と総塗籠の外壁、多居の天守をもつ姿から、別名を白鷺城という。
①聚楽壁
②白漆喰
③珪藻土
④錆壁

正解:2[正解率:91%]
兵庫県姫路市の小高い丘陵に立つ「姫路城」は、近世日本を代表する木造城郭建築です。その美しい外観から「白鷺城」と呼ばれるこの城は、1993年、日本初の文化遺産として「法隆寺地域の仏教建造物群」とともに世界遺産登録されました。姫路城は、南北朝時代の播磨守護・赤松則村が築いたとされる城を起源に持ちます。16世紀後半には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が入城し、毛利氏との戦いに備えて本格改修を行い、3層の天守閣を築きました。現在の姿には、西国大名として新たに城主となった池田輝政が、1609(慶長14)年まで8年をかけて行った大改修で整えられました。池田氏の後には本多忠政が入り、長男の忠刻とその妻千姫(徳川秀忠の娘)も住まいとしました。
姫路城は一度も戦禍に見舞われず、1615(元和元)年の一国一城令や明治維新時の廃城令による取り壊しも免れて、往時の姿が良好な状態で残されてきました。1934年から第二次世界大戦を挟んだ1964年にかけては「昭和の大修理」と呼ばれる大修復作業が国家事業として実施されます。とくに1956(昭和31)年からは、8年の歳月を費やして大天守の解体修理工事「昭和の大修理」が行われました。一連の大改修によって、姫路城は池田輝政時代の姿にもっとも近い状態で保たれることになり、ひいては世界遺産の登録へとつながりました。また作業中に多くの銘文が発見され、大天守の築造過程も明確になりました。



「古都奈良の文化財」を構成する寺院のひとつ、唐招提寺は、高僧により創建された。この僧は誰か。
①空海
②親鷺
③道元
④鑑真
正解:4[正解率:78%]
「古都奈良の文化財」は、710(和銅3)年から784(延暦3)年の74年間、日本の首都、平城京として繁栄し、天平文化の中心地であった奈良市の寺社および歴史的遺構です。奈良時代と呼ばれたこの時代は、日本が国家としての基礎を磐石にした時期。登録物件はいずれも当時の都と人々の様子を鮮やかに映し出し、8世紀の日本の文化、建造物、中国や朝鮮半島との交流を今に伝える貴重な文化遺産といえます。とりわけ建造物については、中国や朝鮮半島にこの時代の木造建築物がほとんど残っていないことから、世界史的見地からも高い評価を得ています。
遺産として登録されたのは「東大寺」「興福寺」「元興寺(極楽坊)」「薬師寺」「唐招提寺」「春日大社」「春日山原始林」「平城宮跡」の8件です。建造物はいずれも奈良時代の木造建築技術力が文化的、芸術的に高い水準にあったことを示す遺産であり、平城宮跡は平城京の様子を現代に伝える考古学的価値を、また春日山原始林は自然崇拝に根ざす日本人の宗教観を表す例として、それぞれ遺産価値が認められました。

次の文章中の空欄に当てはまる人名はどれか。
1996年に世界遺産に登録された「厳島神社」は、6世紀に創建され、平安時代末期に()の篤い信仰を受けて徐々に社殿が整えられていった。
①源頼朝
②源義経
③平清盛
④藤原秀衡

正解:3[正解率:81%]
「厳島神社」は瀬戸内海に浮かぶ宮島にあり、いわゆる日本三景のひとつ「安芸の宮島」としてもよく知られています。社伝によると、創建は6世紀(593年)にまでさかのぼります。創建当時の社殿の所在地や様子は不明ですが、平安時代末期には平清盛の篤い信仰を受け、徐々に社殿が整えられていきました。海上に建物が並ぶ現在の姿になったのは、1168(仁安3)年ごろと考えられています。6世紀の創建以来、台風や高潮による被害をたびたび受け、一時荒廃した時期もあったものの、戦国時代に毛利元就の援助を受けて再興を果たしました。明治維新後は政府に保護され、1956(昭和31)年の大改修を経て、12世紀の姿が今日まで伝えられています。
本殿は「両流造り」と呼ばれる神社建築様式で建てられ、本社本殿を中心に客神社や能舞台などが回廊で結ばれており、配置には寝殿造りの様式が取り入れられています。両流造りは全国に普及している「流造り」の-種で、本来は切妻屋根の正面前方だけに屋根を延ばすところを、後方にも同様の庇状の屋根を長く延ばした形のものです。現在の本殿は1571(元亀2)年、毛利元就によって建てられました。能舞台は日本で唯一、海に浮かぶもので、社殿背後の緑豊かな弥山も登録範囲に含まれています。


古都京都の文化財のひとつとして、世界遺産に登録された二条城。その二の丸、御殿の大広間で、1867年に歴史的事件が起こった。徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜が大名を集めて、ある決意表明を行ったのである。慶喜が表明したこととは何か。
①大政奉還
②王政復古の大号令
③安政の大獄
④公武合体

正解:1[正解率:84%]
「古都京都の文化財」では、日本を代表する古都であり1,200年を超える歴史のひのき舞台・京都にある合計17件もの寺・神社・城・庭園が世界潰産登録されています。登録された17件は日本の木造建築、宗教建築、日本庭園の歴史と発展過程を如実に物語り、石造の西洋の建築物と異なって壊れやすい木造でありながら創建当初に近い形で残されていることも高く評価されています。
17件のうち、寺社以外の木造建造物として登録されている唯一の物件が二条城です。
二条城は江戸幕府初代将軍・徳川家康が1603(慶長8)年に造営した平城で、御所の警備および上洛時の居城として創建されました。その後、3代将軍・徳川家光により1624(寛永元)年から2年をかけた拡張工事が行われ、現在の規模となりました。
総面積は約27万4,380㎡(約8万3,000坪)で、建造物の床面積だけで7,272㎡(約2,200坪)にもなります。
中心となる二の丸御殿は、家光の拡張工事の際にほぼ現在の形へと整備されました。
典型的な桃山文化の武家風書院造り建築で、当時の城郭としては現存する唯一のものといわれています。御殿の総面積は約3,300㎡・部屋の総数は33室で、800畳を超える畳が敷かれ、狩野探幽をはじめとする狩野派絵師の障壁画が多数飾られています。
御殿は築地塀で囲まれ、家康の茶道指南役を務めた茶人・小堀遠州の作庭とされる二の丸庭園が御殿に面して広がっています。

次の文章中の空欄に当てはまる語句はどれか。
2004年に文化遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」は、「吉野・大峯」「熊野三山」「高野山」の3霊場、及びそれらと京都、奈良伊勢神宮などを結ぶ参道からなる。この3霊場と参詣道は日本古来の神道と中国本土や朝鮮半島から伝わった仏教が融合して誕生した()という独自の信仰形態を表現している。
①神仏習合
②神仏混在
③和洋折衷
④折衷主義

正解:1[正解率;83%]
「紀伊山地の霊場と参詣道」では、和歌山、三重、奈良の3県にまたがる紀伊山地の3つの霊場と、それらを結ぶ参詣道が世界遺産に登録されています。紀伊山地は古代より「神の籠もる聖域」として崇められた山岳地帯で、本遺産では、日本独自の「神仏習合」思想を基礎とする宗教観を反映した文化的景観が高く評価されています。神仏習合は、日本古来の自然崇拝に根ざした神道と、中国本土・朝鮮半島から日本に伝わった仏教が融合して誕生した信仰形態です。この思想においては、仏教の仏が姿を変えて現れたものが日本の神々であり、本来は同じものであるとされました。たとえば天照大神と東大寺の大仏が同体であると考えるなど、神道と仏教の崇拝対象を同一視しているのが大きな特徴といえるでしょう。
明治維新で出された神仏分離令により神仏習合は否定されましたが、この思想を表す文化的景観は現在もこの地域に残っています。




青森県と秋田県にまたがる「白神山地」に関し、空欄A、Bに当てはまる語句の組み合わせで正しいものはどれか。

白神山地に広がるブナ林は、東アジアに残る最後の原生温帯林であり、多種の動植物を育んでいることでも知られる。本州では幻のキツツキと呼ばれ、天然記念物に指定されている(A)や、固有種の植物である(B)などが生息しており、「動植物の宝庫」と呼ばれている。

①Aハシボソキツツキ Bアオモリマンテマ
②Aクマゲラ Bレブンアツモリソウ
③Aクマゲラ B アオモリマンテマ
④Aハシボソキツツキ Bレブンアツモリソウ
 

正解:3[正解率:67%]
白神山地はブナの原生林が存在する地域です。青森県と秋田県にまたがって広がる同山地のうち、101、39kmの核心地域と68、32k㎡の緩衝地帯からなる169、71kmが「白神山地」として自然遺産に登録されています。この地域は200万年前(新生代第四紀初期)まで一部が海域にありましたが、第四紀後半に急速に隆起して造られました。
何万年もの間、隆起と崩落を繰り返し、独特の地形を形成してきた白神山地は、現在もきわめて速いスピードで隆起を続けています。
ブナ林は地球が寒冷化するにつれて南下し、ヨーロッパ、アメリカ、日本の3カ所に分布しています。しかしヨーロッパとアメリカに残るブナ林は大陸氷河が発達した時代に大きく分布を変え、生物多様性を減少させました。その点、日本のブナは氷河に覆われることがなく、かつての生物多様性がそのまま残されています。白神山地の原生林は、さまざまな動植物の生態系がほぼ手つかずで残っている点でも重要な意味を持っているわけです。

現在、日本の暫定リストに掲載されている「平泉一浄土思想を基調とする文化的景観」。平安時代、東北一帯を統治し、平泉に国宝・中尊寺金色堂や毛越寺庭園などを含む遺跡群を築いた一族は次のうちのどれか。
①伊達氏
②奥州藤原氏
③源氏
④平氏

正解:2[正解率:80%]
カナダのケベック・シティで開催された2008年の第32回世界遺産委員会で、日本の「平泉一浄土思想を基調とする文化的景観」については登録延期の決定がなされ、残念ながら日本で15件目の世界遺産誕生には至りませんでした。
平泉は、平安時代末期の1087(寛治元)年から1189(文治5)年までのおよそ100年間、奥羽(陸奥、出羽の両国。現在の東北地方6県)の統一を果たした奥州藤原氏のもとで繁栄しました。奥州藤原氏は、初代の藤原清衡に始まり、2代基衡、3代秀衡、4代泰衡と続いて奥羽全土を支配下に置きます。砂金や馬、北宋との貿易で得た富と、平和政策によって100年の繁栄を築き、平安京の文化を取り入れながら独自に発展させた華麗な建造物を残しました。
奥州藤原氏は泰衡の時代、源頼朝に攻められて滅びますが、鎌倉幕府は平泉の文化には敬意を表し、建造物の保護政策をとりました。鎌倉を整備する際にも平泉の町を参考にしたといわれます。こうして残された数々の仏教寺院や浄土庭園は、古代から中世への過渡期における地方文化の傑出した遺産です。

自然遺産
次の文章中の空欄A、Bに当てはまる語句の組み合わせで正しいものはどれか。
中国四川省の( A ) 自然保護区をはじめとする7つの自然保護区と、四姑娘山など9つの風景保護区は「ジャイアントパンダ保護区群」として自然遺産に登録されている。これらの保護区群にはジャイアントパンダの他に、レッサーパンダ、キンシコウ、(B)なども生息している。

①A黄山 B イリオモテヤマネコ
②A黄龍 Bユキヒョウ
③A泰山 Bリクガメ
④A臥龍 Bウンピョウ

正解:4[正解率:45%]
中国中部、「四川省のジャイアントパンダ保護区群」は、臥龍自然保護区をはじめとする7つの保護区と四姑娘山など9つの風景保護区を含む、世界で最も重要なパンダの生息地です。これらの保護区は、連続性のある自然遺産として2006年に登録されています。核心地域は9,245kmで、5,271kmの緩衝地帯を持っています。
選択肢にある他の3つの地名は、いずれも中国にある世界遺産です。「黄山」は多様な植物の生息地で、唐代以降の中国の文化・文芸・美術に大きな影響を与えてきた道教の聖地。複合遺産として登録されています。「黄龍」は玉翠山麓の樹海に囲まれた渓谷に広がる絶景の湖沼群で、棚田状に連なる様が黄色い龍の鱗に見えることからこの名がついたといわれる自然遺産です。「泰山」も道教の聖地で、中国五岳の筆頭として名高い山。秦の始皇帝が「封禅」と呼ばれる儀式を行って以来、多くの皇帝がこの地で封禅を行ってきました。多数の植物が生育する貴重な自然環境と、古くからの宗教建築が調和した複合遺産です。

次の文章中の空欄に当てはまる語句はどれか。
1987年に自然遺産に登録されたインドの「スンダルバンス国立公園」は、1973年より、密猟者の横行によって著しく減少していた()の保護区となっている。
①インドライオン
②インドゾウ
③ウンピョウ
④ベンガルトラ

正解:4[正解率:58%]
「スンダルバンス国立公園」はインドの東部、バングラデシュとの国境に接した西ベンガル州にあります。同国立公園は世界最大のデルタ地帯に広がる大湿地帯で、世界最大のマングローブの密林が、うっそうと茂る自然公園でもあります。
マングローブとは、熱帯の河口付近の植物が、潮の干満によって特殊な植生を形成した常緑低・高木の一群のこと。一般にヒルギ科の植物が多く見られます。マングローブ林は、日本でも沖縄県・八重山諸島の西表島や石垣島などで見ることができます。
自然遺産としての登録範囲は、総面積約1,330km。ちなみにスンダルバンスという名は、汽水域のマングローブ林の優先種で、樹高11m近くになる現地名「スンダリ」という樹木に由来しています。
8万km2にも及ぶ広大なデルタ地帯は、ガンジス川とブラマプトラ川がヒマラヤ山脈から土砂を運び、河口に堆積地を形成してできたもの。マングローブが生息する湿地帯には、300種を超える植物が確認されているほか、数多くの海洋動物も生息しています。また、マングローブ林はさまざまな野生動物の生息地で、ベンガルトラやジャワサイなどの哺乳類や、トキ、コウノトリといった鳥類が生息しています。

文化遺産

次の文章中の空欄に当てはまる語句を、それぞれ下の[語群]から選びなさい。
鳴沙山東斜面に開かれた「敦埠の莫高窟」は、( ) 時代から元朝まで、1000年にわたって築かれた世界最大規模の仏教石窟寺院である。窟内には鮮やかな壁画が描かれており、人物画にはインドや()の影響が見られる。
①前秦
②西秦
③後秦
④ビザンティン
⑤東ゴート
⑥ヘレニズム


正解:1[正解率:42%]
敦煙の歴史は前漢の武帝の時代から始まります。辺境の軍事拠点として建設され、中国と西域、ペルシア、ローマを結ぶシルクロードの中継地として発展。中国の西の玄関口として重要な位置を占めるようになりました。西方からシルクロードを通ってきた文化は、すべて敦煙を経由して中国各地へ伝えられ、反対に中国の物資はここから西域へもたらされました。仏教もこの地を通じて広まり、多くの仏典が漢訳されました。敦煙郊外にある鳴沙山の東斜面に開かれた莫高窟は、前奏時代の4世紀半ばから元朝の13世紀まで、16王朝に及ぶおよそ1,000年にわたって造営力了続けられました。

正解:6[正解率:55%]
断崖面の南北約1,700mにある石窟の数は735で、うち敦煙文物研究所で窟番号をつけたものが492。最も大きいものは高さ約40m、最も小さいものは高さ約30cmです。石窟には鮮やかな色彩の壁画が描かれています。そのほとんどは「フレスコ・セッコ」(乾いたフレスコ)という技法で描かれ、すべての壁画をつなぎ合わせると約25km、総面積4万5,000㎡にも及びます。人物画にはインドや中国、ヘレニズムの影響が見られます。また石窟内には塑像の仏像が安置され、その数は2,400を超えます。初期のものは仏教美術の影響を受けた力強い造形を特徴とし、晴から唐代にかけてのものはより写実的で優美さを備えています。

紀元前2300年~1800年頃に繁栄したインダス文明の様子を今に伝えるパキスタンの「モヘンジョ・ダーロ考古遺跡」について、以下の問いに答えなさい。・モヘンジョ・ダーロでは、支配者のための巨大建造物や宮殿などが存在しない。これは何を意味するか。
①専制社会だった
②専制社会ではなかった
③植民都市だった
④奴隷者階級の居住地だった


正解:2[正解率:69%]
「モヘンジョ・ダーロの考古遺跡」は、世界最古の文明のひとつであるインダス文明で最大の都市遺跡です。パキスタン南部のインダス川下流に位置するモヘンジョ・ダーロ。その名は「死者の丘」を意味し、ここから多数の人骨が発見されたことに由来しています。モヘンジョ・ダーロは紀元前2300年~前2000年ごろに繁栄の最盛期を迎え、前1800年ごろには滅亡しました。きわめて高度な計画都市として、後のインド亜大陸の都市文明に大きな影響を与えたとされています。インダス文明は、古代エジプトやメソポタミア文明との間で活発な交流を行っていました。しかしインダス文明では、壮大な王宮や墓廟、神殿といった支配者のための巨大建造物がないため、強大な権力者が君臨する専制社会ではなかったことが判明しています。


世界遺産には登録されていないが、モヘンジョ・ダーロと並んで、インダス文明を代表する都市遺跡はどれか。
①ソチカルコの古代遺跡地帯
②ドゥッガの考古遺跡
③パフォスの考古遺跡
④ハラッパーの考古遺跡


正解:4[正解率:64%]
インダス文明は主としてインダス川流域を中心に栄えた、インドの古代都市文明です。かつてインダス文明の担い手は、紀元前1500年ごろに中央アジアから南下したアーリヤ人だと考えられていました。しかし1920年代にモヘンジョ・ダーロが発見されたことにより、それより800年も前に文明がすでに存在していたことがわかったのです。文明を築いた種族は現在のところ不明となっています。
主要な都市遺跡としては、モヘンジョ・ダーロ以外に、パンジャブ地方のハラッパーやカーリーバンガンなどがあります。ハラッバーの遺跡はとくに菫要で、インダス文明の別名として「ハラッパー文化」という言葉が使われることもあります。


次の文章中の空欄に当てはまる語句を、それぞれ下の[語群]から選びなさい。
「アントニ・ガウディの作品群」は、19世紀未スペインのカタルーニャ地方で起こった芸術運動()を代表する計7つの建造物群である。その中でもガウディがもっとも情熱を捧げたとされる「サグラダ・ファミリア聖堂」は、現在も建築中であり、完成している()と地下聖堂のみが、2005年に世界遺産の登録範囲となった。また、ガウディと並んで()の天才建築家と称されるルイス・ドメネク・イ・モンタネルによる、()とサン・パウ病院も世界遺産に登録されている。

①モデルニスモ
②ダダイスム
③誕生のファサード
④ラ・ペドレーラ
⑤サン・ミリャン・ユソの修道院
⑥カタルーニャ音楽堂

正解:1[正解率:59%]
スペイン東部カタルーニャ地方の中心都市バルセロナは、スペインでは最も早い19世紀に産業革命を経験し、建設ラッシュを迎えました。ちょうどそのころに出現したのが、建築家アントニ・ガウディ・イ・コルネです。
19世紀末から20世紀初頭にかけ、ヨーロッパ各地で「新しい芸術」が興りました。曲線的なデザインと華麗な装飾を特徴とするこの世紀末の芸術復興運動は、フランスではアール・ヌーボー、そしてスペインではモデルニスモと呼ばれました。
スペインのモデルニスモはカタルーニャに限定されました。その中心がバルセロナで、いち早く産業革命を成し遂げて自信を深めた人々が、モデルニスモを開花させたのです。イスラム文化の影響を受けたイベリア半島らしく、独自のムデハル様式を取り入れた点が、他国の運動と異なるところです。
孤高の建築家といわれるガウディは、1852年、銅版器具職人の息子としてカタルーニャに生まれ、バルセロナの建築学校を卒業しました。直線と矩形のデザインを嫌い、波のようなカーブを描くデザインや、破砕タイルによるモザイク状の装飾といった特徴を持つ造形は、まさにモデルニスモを代表する斬新なもの。“自然の中にすべての教科書がある”という彼の哲学を存分に表しています。
また、構造から装飾まで有機的なつながりを持つひとつの生命体として建築全体を表現。後世の芸術家に多大な刺激と影響を与え、画家のサルバドール・ダリはガウディの作品を「五感の建築」と絶賛しています。
ガウディが設計した建築物群のうち、7件が「アントニ・ガウディの作品群」として文化遺産登録されています。

正解:3[正解率:51%]
「アントニ・ガウディの作品群」には、まず1984年に「カサ・ミラ」「グエル邸」「グエル公園」の3件が登録され、続いて2005年に「サグラダ・ファミリア聖堂」「カサ・ヴィセンス」「カサ・バトリョ」「コロニア・グエル聖堂の地下聖堂」の4件が追加登録されました。石切り場を意味する「ラ・ペドレーラ」という通称がついたカサ・ミラは、ガウディの考えが最も顕著に表れた作品です。実業家ペレ・ミラの依頼で1910年に完成した住宅兼高級アパートで、海岸線の断層を想起させる波打った外観、複雑に絡み合う鉄細工や尾根から突き出た峰を表現する独創的な煙突など、人工的な自然をテーマとした傑作といえます。ガウディ作品の特徴である破砕タイルのモザイク装飾も随所に見られます。
ガウディが設計を手がけた作品としてあまりに有名なサグラダ・ファミリア聖堂ですが、世界遺産として登録される建築物は完成物件でなければならないため、予定されている3つのファサード(建物正面)のうち唯一完成している「誕生」のファサードと、地下聖堂のみが登録されています。「誕生」のファサードはキリストの生誕にちなんだ装飾を施したもの。他の2つのファサードは「受難」と「栄光」となっています。なお、サグラダ・ファミリアとは「聖家族」の意味です。
着工は1882年でしたが、ガウディは翌年にサグラダ・ファミリア聖堂の建築主任となり、設計を大幅変更。あまりの複雑さのため、120年以上を経た現在もなお建築途中です。ガウディは晩年はサグラダ・ファミリア曠罪聖堂の設計に専念しました。しかし1926年、建築途中の聖堂を残し、路面電車に礫かれる不慮の事故でこの世を去りました。

正解:6[正解率:67%]
バルセロナでは、ガウディと同時代に活躍したもうひとりの天才芸術家、ルイス・ドメネク・イ・モンタネルが設計した2件の建築物も、「バルセロナのカタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院」の名で文化遺産に登録されています。
カタルーニャのモテルニスモの理論的提唱者として知られるドメネクは、1850年の生まれ。若くしてバルセロナ建築学校の教授となり、後に学長を務め、ガウディに講義を行ったこともあります。
モデルニスモの運動で彼がめざしたのは、ゴシック様式と、イスラム文化の影響を大きく受けているムデハル様式を基礎にして伝統的な技能を再生し、新素材を導入するというものでした。カタルーニャ文化を代表する芸術家として名声を博したドメネクが、そうした理論を結実させて生み出した最高傑作が、カタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院です。

その他
体毛がほぼ白一色でおおわれたウシ科のアラビアオリックスは、1972年に最後の_頭が射殺されて野生種は絶滅したが、オマーン政府がアメリカの動物園などで飼育されていた10頭を譲り受けて繁殖させた。その「アラビアオリックス保護区」が自然遺産に登録されたのは1994年のことで、2年後には450頭にまで増加した。しかし密猟などでアラビアオリックスは激減、さらに政府が油田開発のために保護区を90%も削減したことで、保護区は世界遺産条約誕生以来はじめて、07年に( ) された。
①危機遺産リストに登録
②世界遺産墓令が支給
③世界遺産リストから削除
④負の遺産に変更
正解:3[正解率:92%]
世界遺産を保全する第一義的な責任は、その遺産の保有国にあります。このことは、その国の経済政策や都市計画と世界遺産の保全体制との関係に対して、大きな影響を及ぼす可能性も示唆しています。
世界遺産は、さまざまな理由から絶えず「重大な危機」にさらされています。その危機とは、地震や台風、高潮などの自然災害、あるいは戦争やテロなどの武力紛争といったものだけでなく、都市、観光開発、道路・資源開発、大規模工事、法的保護・管理体制の不備、さらには商業的密猟や、観光客の増加による環境破壊、風化・劣化、外来種侵入など、遺産本来の普遍的な価値を失うあらゆる状況が想定されています。世界遺産がこうしたさまざまな理由で危機にさらされた場合は、世界遺産委員会の決定により「危機にさらされている世界遺産リスト」(危機遺産リスト)に登録されます。遺産保有国が世界遺産委員会と協議のうえ、対象物件の保全体制を整えるなどして改善が見られれば、危機遺産リストから削除されます。しかし改善が見られない場合は、世界遺産リストからの削除もありうるわけです。「アラビアオリックス保護区」は、オマーン政府がアラビアオリックスの保護を事実上放棄したため、例外的に、危機遺産リストに掲載されることなく世界遺産リストから削除されました。


ユネスコが「人類の口承及び無形遺産の傑作」として宣言した物件について、以下の問いに答えなさい。
次の文章の空欄には同じ語句が入る。下の選択肢から選びなさい。
フィリピン・ルソン島北部のコルディリェーラ山脈の斜面に2万kmにわたる棚田がある。この棚田は、少数民族()のおよそ2000年前から継承されてきた耕作技術によって築かれたものである。この()のハドハド(フドウフドゥ)詠歌は、2001年にコーネスコから「人類の口承および無形遺産の傑作」と宣言された。
①イフガオ族
②ウイグル族
③カザフ族
④サラ族


正解:1[正解率:53%]
ルソン島北部、コルディリェーラ山脈の標高1,000~2,000mの山岳地帯に住む少数民族イフガオ族は、2,000年前から山の斜面を切り開いて階段状の棚田を開き、稲作農業を営んできました。
2万kmにわたって広がる棚田は、急斜面で2~3mの幅、上下段を分ける泥壁や石垣の高さは6~10mで幅は30cmほど。農道の役目も果たす泥壁や石垣の総延長は、地球半周分の約2万kmにも及ぶといいます。この貴重な棚田と、それに基づき育まれた文化的景観が、1995年に文化遺産登録されました。
この棚田を生んだ農耕技術は、2,000年にわたって口承により受け継がれてきました。高床式住居に住み、古代から続く生活様式は、スペインやアメリカカゾ支配層としてこの島に入り、道路などの近代的なインフラが整備された時代であっても変わることはありませんでした。急勾配で耕作地が狭いため大型機械の使用が難しく、水牛を使うことはあるものの、ほとんどの作業は人力で行われています。節を抜いた竹筒で湧き水を流す灌既設備も2,000年前と基本的に変わりません。


次の文章中の空欄に当てはまる語句はどれか。
日本からは、2001年に「能楽」、2003年に「人形浄瑠璃文楽」、2005年に「()」が、「人類の口承及び無形遺産の傑作」と宣言されている。
①落語
②歌舞伎
③講談
④雅 楽

正解:2[正解率:85%]
世界遺産には「不動産であること」という絶対条件があります。このため絵画や彫刻はもちろんのこと、伝統芸能、伝統工芸技術、社会的慣習、儀式といった口承・無形の文化も世界遺産として登録することはできません。しかし、これらの無形の文化や芸術も、有形の文化である世界遺産と同様に、人類が宝物として守るべき共通の遺産であることには変わりがないはずです。そこで近年は、こうした無形の文化も保護していこうという動きが高まってきました。口承・無形の文化の保存については、2003年に開かれた第32回ユネスコ総会において「無形文化遺産の保護に関する条約」(無形文化遺産保護条約)が採択されました。同条約は2006年1月に発効のための
要件であった30カ国の締結が済み、同年4月20日に正式発効しています。日本はもともと「人間国宝」や「重要無形文化財」といった制度があったため、無形文化遺産に対する理解が深い国でした。このため無形文化遺産保護条約への対応も早く、2004年6月に3番目の締結国となっています。

「エコ・ツーリズム」の説明として正しいものを選びなさい。
①ガイドブックなどを見ることによって、家にいながら観光気分を楽しむこと
②地域ぐるみで自然環境や歴史文化など、地域固有の魅力を観光客に伝えることにより、その価値や大切さが理解され、保全につながっていくことを目指していく仕組みのこと
③個々人が観光しながら、ボランティアでゴミ拾いなどをして、環境問題を自発的に考える運動のこと
④大衆が観光しやすいように、観光地の施設を整備する事業のこと

正解:2[正解率:65%]
世界遺産と聞けば、それが自然遺産であれ文化遺産であれ、多くの人が観光に行きたいと考えるのはごく当たり前のことでしょう。同時に世界遺産を抱える国や自治体などにしてみても、その魅力を地域活性化の起爆剤にしたいと考えるのは当然のことです。
しかし、観光と世界遺産とは少々微妙な関係にあります。たとえばゴミの問題。観光客が多く集まるところでは、必然的にゴミも多く出るものです。すべての観光客がきちんとした意識を持っているなら問題はないでしょうが、現状はそうもいきません。
かといって、観光はあくまでもボランティアではありませんから、ゴミ拾いをしながら観光すればいいというものでもありません。
また、多くの観光客を集めようとすれば、多くの人間を運ぶための交通機関や道路の整備力が必須ですし、宿泊や飲食施設なども設けなければならないでしょう。しかしそうした施設を新たに造ることで環境が侵される可能性がありますし、設備が整えられることであまりに多くの観光客がやってくれば、また別の問題が起きうることも容易に考えられます。

次の文章中の空欄に当てはまる語句はどれか。
1980年、インドネシアのボロブドゥール遺跡修復完成式典に日本ユネスコ協会連盟の代表として出席した桑原武夫氏は、「世界遺産とは()を守るもの」という名言を残した。
①地球の歴史
②人類の功績
③自然の作品
④地球の品位

正解:4[正解率:46%]
「世界遺産とは、地球の品位を守るもの」。これは1980年に、当時日本ユネスコ協会連盟副会長で京都大学名誉教授だったフランス文学者、桑原武夫氏が残した言葉です。このとき桑原氏は、インドネシアのボロブドゥール遺跡修復完成式典に日本ユネスコ協会連盟の代表として出席していました。そしてその際の印象として朝日新聞に掲載した言葉力了、前述の「世界遺産とは、地球の品位を守るもの」です。世界遺産とは、地球46億年の歴史と人類数百万年の歴史の中から生み出され、今日まで受け継がれてきた「かけがえのない宝物」を人類共通の遺産ととらえ、現世代がこれを活用するとともに、未来の世代にも残していこうという積極的な試みです。
そして世界遺産条約は、地球という星が46億年という歳月の間に生成してきた歴史について「人類」という立場から共通の価値を評価し、リスト化していくという「地球の記憶」事業だといえます。
そのように考えたとき、世界遺産を国際協力で保護していくことが、「地球の品位」を保つために必要不可欠なことであり、同時に私たち人類に与えられた課題であるということも、自然と理解できることでしょう。


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